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HOME > 伯耆古城図録 > 伯耆古城図録 ~東伯郡湯梨浜町篇~ > 旧東伯郡泊村 > 石脇城

◆ 石脇城

【 概 略 】

石脇集落の南方、高さ約13m、周囲約500m程の台地先端部に所在する。

因伯国境が間近に迫るため、対因幡方面へ備えた前衛施設とし伯耆国泊城の支城で東の要ともされる。

現在は台地西側を筒地方面に向かう県道259号が通ることから道路の敷設による改変も考えられるが、石脇神社跡の残存部分から北側~東側に対する城塞であることが伺える。

 

主郭は字「宮ノ越」が推定され現在は畑地となっている。

字「宮ノ越」を中心に北側には字「西屋敷」と字「東屋敷」、南側には字「堀」とあり、その更に南が字「久塚」となる。

西側の石脇神社跡周辺が字「古茂屋」とあり、緩やかな連郭が西に向かって伸びていたようである。

字「久塚」の更に南には字「勝負谷」が見え、元亀年間に毛利方と尼子残党が合戦を行った「久塚表」の推定地の一つと考えられる。

 

台地の東側は切岸に土塁を設けることで主郭を守り、北側は切岸の上部に畝状竪堀と見られる竪堀と土塁が10条以上並び配されている。

北面を西側の果樹畑まで竪堀群が続いていたと仮定するなら20~30条の竪堀を有した縄張が考えられ、切岸面に対し竪堀を敷き詰めた構造を持つ城砦は伯耆国内でも極めて稀、或いは唯一の城砦となる可能性も。

 

築城時期は不明とされるが元亀年間の久塚表の戦いでは吉川方の防衛拠点として、天正年間には毛利氏が有し対因幡侵攻の攻撃拠点とする運用がなされたようで攻守の切替が可能な汎用性に優れた城砦と推測される。

 

因伯古城跡図志では水手が近くにあったことが記されており、籠城戦が行える城砦であったことを裏付けている。

廃城後は社地に転用とされ、図志の描かれた文政年間頃も社地としている。

 

因伯古城跡図志 石脇村古城跡

石脇村古城跡 高七間位ニシテ臺也 周リ六町位 近辺ハ竹木草有 水近所ニ有 海辺八三町位 當時社地トナリ 大森也

 

1571年(元亀2年)5月9日、尼子再興の軍を率いた尼子勝久の軍勢により攻撃を受けている。(久塚表の合戦)

当城を守備していた吉川方の軍勢と激しい戦闘となり、尼子方の原又太郎の奮戦に対し尼子勝久が感状を送っている。(尼子勝久感状〔原又太郎宛 米井家文書〕)

 

久塚表の合戦では多数の死傷者が出たと云われ、付近一帯にある五輪塔群には泊海岸で見られる石が使われていることから戦死者を村人が弔ったものではないかと伝わっている。(泊村誌)

 

天正年間には尼子残党を駆逐した毛利氏が引き続き領有し、西進する織田方に対する軍事拠点としたことが推測される。

 

1584年~1585年(天正12年~天正13年)、京芸和睦により毛利氏南条氏の領地が確定すると当地は南条領(4万石)と決定されている。

 

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで西軍に与した南条氏が改易された頃、泊城と併せて廃城と云われる。

廃城から暫くの後に城跡は社地となり、石脇村の氏神を祀る古木の生茂る荘厳な森となっていたようである。

 

1915年(大正4年)に社地が廃止され、以降は畑地として利用されている。

県道沿いに残る石脇神社跡の鳥居には石工川六の銘が彫られており、往時の形を今も残している。

【 遠 景 】

西からの遠望

北西からの遠望

北東からの遠望

南西からの遠望

【 見どころ 】

石脇神社跡の鳥居(石工川六の作品)

城跡の目印にもなっている石脇神社跡の鳥居。

石工、川六の作品で県内には狛犬や灯篭など多くの石造作品が現存します。

川六作品の凄い所はデザインが秀逸であることはもちろん、震度6クラスの地震にも倒れず、壊れずといった高い耐震性・耐久性を誇る設計にも唸るものがあります。

城跡へ訪れた際は石脇神社跡の鳥居もぜひご覧ください。

北郭に畝状竪堀群?

主郭東側の土塁上部を北へ進むと北限付近に何条にも連なる土塁と竪堀跡のような痕跡が見えます。

目視できたのは北東側の10~12条程度。

途中から倒れた竹によって地形の確認が難しいものの、北西の果樹畑まで土塁と竪堀跡が交互に連なっているような感じです。

これが畝状竪堀群であれば北側の切岸面全てに竪堀を巡らせた縄張も考えられ、この規模の竪堀群を持つ城砦は恐らく伯耆国内で唯一と思われます。

【 概 要 】

名 称石脇城(いしわきじょう)

別 名:久塚城/久津賀城/九塚城(くづかじょう)

所在地:鳥取県東伯郡湯梨浜町石脇(字宮ノ越)

築城年:不明

廃城年:1600年(慶長5年)

築城主:不明

城 主:不明

形 態:丘城、海城

遺 構:郭跡(腰郭・帯郭)、土塁、竪堀(畝状竪堀群)、空堀、切岸、土橋

現 状:畑地、果樹畑、竹林、住宅

種 類:史跡指定なし

【参考文献】

・因伯古城跡図志(1818年(文政元年))

・尼子勝久感状(元亀2年5月9日:米井家文書)

・泊村誌(平成元年5月:泊村誌編さん委員会)

・羽合町史 前編(昭和42年10月:羽合町史編さん委員会)

・角川日本地名大辞典31鳥取県(昭和57年12月:角川日本地名大辞典編纂委員会)

・一般国道9号線(青谷・羽合道路)改築工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書(1998年:財団法人 鳥取県教育文化財団)

【城娘】

 

【 縄張図 】

不明

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

元亀2年

1571年

天正12年~天正13年

1584年~1585年

慶長5年

1600年

大正4年

1915年

社地の廃止により畑地への転用が行われ往時の面影を失うとある。(泊村誌)

【 写 真 】(訪問日:2020/01/11)

西側の水路

西側に石脇神社跡の残存部

県道から畑に続く作業道

主郭南側の郭跡(南郭)は字「堀」へ続く

南郭の土塁(東側)

南郭の土塁(東側)

主郭の様子

主郭の様子

主郭から北側の郭跡(北郭)

主郭東側の土塁と切岸

土塁下部の石塊は旧社殿等の石垣跡?

崩落した石塊

石塊が見える土塁上部には石積跡

土塁上の石積跡(祠跡?)

土塁上部から主郭の眺め

土塁上部

土塁上部

土塁上部

土塁上部から東側切岸

土塁北端は平坦地(北郭)

北郭の北側には切岸と畝状竪堀群

北郭北側の畝状竪堀群

北郭北側の畝状竪堀群

北郭北側の畝状竪堀群

北郭北側の畝状竪堀群

北郭北側の畝状竪堀群

北郭北側の畝状竪堀群

北郭北側の畝状竪堀群

北郭北側の畝状竪堀群

北郭北側の畝状竪堀群

北郭北側の畝状竪堀群

北郭北側の畝状竪堀群

北郭北側の畝状竪堀群

北郭北側の畝状竪堀群

畝状竪堀群の土塁北端に土留岩

畝状竪堀群の土塁北端に土留岩

畝状竪堀群の土塁北端に土留岩

北郭の北側腰郭の切岸

北郭の北側腰郭の切岸

北郭の北側腰郭の切岸

北郭の北側腰郭の遠望

北郭の西側

北郭の西側

北郭の西側は石脇神社の社殿跡?

北郭の北西から北西腰郭(上)へ

北西腰郭(上)

北西腰郭(上)から北西腰郭(下)へ

北西腰郭(下)

北郭の西側は緩い連郭で鳥居跡へ続く

北郭の西側(推定:石脇神社社殿跡)

北郭の西側(推定:石脇神社社殿跡)

北郭の西側(推定:石脇神社社殿跡)

北郭の西側(推定:石脇神社社殿跡)